最期の時間

 

あと5年は生きる

もし子供ができれば初曽孫を見せることができる

 

なんて先月会った時も思ってたのに、

大切なじいちゃんが息を引き取りました。

 

母方ばあちゃんの初盆、父方おばあちゃんの初盆、

そのために11日に新幹線取って帰省する予定が、

急遽9日に帰省、11日に告別式になってしまった。

 

 

元々父方のおじいちゃんは小学生の時に亡くなっており、

父方おばあちゃん、母方じいちゃん、ばあちゃんは

病気を患いながらも、長く生きてくれた。

 

最後は母方のじいちゃんで、

まだ生きると思ってたんだーーー。

 

ばあちゃんの初盆を迎える直前に、行ってしまった。

先月会った時はまだ大丈夫、まだ会えるなんて思ってたのに、

なんて後悔するところは本当変わらないな。

 

 

母方は特に、ずっと幼少期お世話になっていて、

すごく大切にしてもらっていた。

 

ばあちゃんもじいちゃんも大好きだったのに、

近くに住んでても中学生に上がると会う頻度が減った。

 

大好きだったのに、

照れ臭くてあまり喋れなかったり、

お礼を言えなかったり、

素直に話をできなかったり、

 

 

ばあちゃんの時に後悔したのに、

じいちゃんの時も同じ後悔をしている。

 

 

ばあちゃんもじいちゃんも頭はしっかりしてたから

尚更、もっと伝えればよかった、死に際に何を思ったんだろうって不安になる。

 

 

ばあちゃんと、じいちゃんと

もっと思い出作りたかった。

 

私はたった一人の孫だから

私からもっといろいろなもの、ことを渡したかった。

 

こんな苦しい思いを抱えて

自分は死ぬまで生きていくんだろうって思う。

 

 

素直になれない性格が

自分をめちゃくちゃ苦しめる。

 

 

自分がもし子供を産んだら必ずこうしたいと思っていることがある。

自分の気持ちを穏やかに、素直に伝える。

大好き、愛してる、嬉しい、悲しいを直接伝える。

 

その姿を見せれば、自ずと素直に発言する人間に育つかな

と勝手に推論しているため。

 

それは、自分の素直な気持ちを言わなかった、しなかったあと、

待っている後悔に苦しんで欲しくないから。

自分は今すごく苦しくて、何よりも苦しい。

 

そんなの意味ないと言われようが、

しないほうがいいと言われようが(何故かによる)、

できるだけ、そうしたいと思ってる。

 

 

 

明日はじいちゃんの告別式。

肉体がなくなってしまう。不安。寂しい。怖い。行かないで。

 

ばあちゃんの時も、今回も同じことを調べて読んで

どうしようもな気持ちになっている。

(人は死んだらどうなるのか、科学的な面と宗教的な面での意見を読み漁る)

 

本当を知りたいから科学的な意見が自分の中で優勢になるが、

たまに気持ちに寄り添う宗教寄りの観念に心が救われることもある。

 

まあ、結局「無」で何もないんだろうな、ってなって悲しんでいるが。

 

 

「無」って怖いなぁ。

 

だからせめて「無」になる前に、自分の言葉で幸せな気持ちになって欲しかったなぁ。

 

って、幸せ感じてたかもしれないし、私には最期何を思ったのか

わからないままなんだけどね。

 

 

「無」って怖い。

長く生きれば怖くないのかなぁ・・・。

 

 

最期の時間だけでもせめて、穏やかに、大切に。

そんな気持ちで書いている。

泣いたら顔も悲惨になるからもう泣かない(ようにする)。

 

 

 

最後に。

 

じいちゃんとの1番の思い出は間違いなく自転車、

補助輪なし自転車に乗れるように練習付き合ってくれて、

補助輪なしで走れるようになった瞬間

忘れられないあの瞬間

後から何度も自転車押して走ってくれたじいちゃん

手を離した瞬間、乗れてる!ってなった時

じいちゃんは後から、既にて離してたよって言ってた気がする

流石に記憶が曖昧だからかもだけど

でもあの記憶は本物だと思う。

あの時、ありがとうって言えてたのかな、、自分。

 

よくオートバイの手前に乗せてもらって近所の畑まで一緒に行ったり、

軽トラに乗せてもらって犬見に行ったり、

ワゴン乗せてもらって買い物行ったり、

大人になっても近くのバス停に送ってもらったり、

 

これ以上泣いたらマジで鼻詰まってもうきついし

明日目が死んでしまうからここでやめます。

 

ばあちゃん、明日は見守っていてね。

13日迎えいくからね。